私は霊の存在を陽には信じていないが、陰には信じてる。
私は表面的には霊の存在を信じていないかのように振る舞うが、その実、「墓を蹴り倒す」のような行為はできないだろう。
霊について。
私は「完全に信じている」。
なぜか?
自分が話をして信頼できると判断した人が、霊を扱う仕事をしており、その人を信じているから。
それ以外の理由はない。
霊の世界は、私(たち)には分からないことだらけだ。だから、
「ああ、◯◯ですよね」みたいなことは言えない。
ただ、聞くしかない。聞いて、霊の世界の法則を知識的に学んでいくしかない。そして、学んだところで、私が霊を視るようになることはない。私は聞いて、信じるだけだ。
かといって、霊の存在を否定する人にたいして、「愚かだ」とは思わない。すなわち、「本当は霊が存在するのに、それを否定するだなんて、現実が見えていない」だなんて思わない。まず、そもそも、霊は普通の人には見えない。次に、「霊が存在する」がどういう意味かについて、私の反省が足りない。
霊の存在を疑う前に、「霊は存在しない」という自分の言葉を疑うべきだ。私はそう考えている。
霊だろうが何だろうが、私たちの認識能力が持つ一般化の力なくしては、認識可能にはならない。すなわち、霊が霊自らのみで私たちの認識に作用し、そうして私たちが霊を感知するといったことはないだろう。尤も、認知していない病因によって私の身体に不調が生じるのと同様に、認知していない霊障によって私の身体に不調が生じるといったことはあるだろう。ところで、霊が存在することが認識されるとすれば、それら非認知的な不調によるのではなく、やはり一般化能力によってであろう。
そして、この一般化の能力は、統計的な種類の能力である。それは実体を直接掴むようなものではなく、異なる多様なものを同じ1つのものとして捉える力だ。
以上の話からして、「霊が存在する」という言葉の意味は、認識されざる作用のことでもないし、直接把握されることでもない。もしも人が、「霊は存在する」とか「霊は存在しない」と言うときに、そのような考えを抱いているとしたら、それは考えが足りないだろう。
霊を目撃したと思ったとしても、本当に自分が霊を見たのかどうかは、信じられないだろう。何かの見間違いかもしれないし、錯覚かもしれない。それに、1回きりのことには統計的な要素がない。1回だけ幽霊を見たことがあるから幽霊を信じるだなんて、おかしなことだ。
そして、もしも霊が、霊特有の規則性をもって現れるのだとしたら、その規則性についてさほど自覚的でないにせよ、それは信じる信じないの問題ではなく、ただ、見える見えないの問題であるだろう。
私は、霊の世界(kosmos)について語る人がいたら、そしてその人が霊の話以外の話でも信頼できる人であれば、彼が語り出す世界について信じる。それは、海外の人の話を信じたり、想像できないほど貧乏な人や、想像できないほどお金持ちの人の話を信じるのと、本質的に変わらない。
霊の秩序があることを私は信じている。その理由ははっきりしている。信頼に値する彼が、私に霊のことを教えてくれたからだ。私には霊は見えない。感じとることもできない。だが、私は、自分の目で見なくても、人の話を信じることができる。相手が信頼できる人なら。