あれ
用者が大きく増えないままデライトが進歩し,洗練されるたびに不思議な感覚を覚えてきた。こんなに凄いものをこんなに少人数で使っていることに,罪悪感に近いものを覚える。隠しているわけでもないのに独占しているみたいだ。事実,デライトほど構想的・技術的に高度で,高品質で,なおかつ無名なサービスは他に無いだろう。
デライト、何だこれ
まじですごすぎて頭おかしい……
なぜデライトのヤバさに気づく人がこんなに少ないんだ?
いい加減知れ渡ってもいい頃合いでは??
10人にも満たない人数で占有していていいものではない。
「今開発されてる〇〇が出たら爆発するだろう」を何度か繰り返している。
私、めちゃくちゃ解説してるのに、なぜ?というか、利用者の数に比して、解説されてる度合いは異次元的に高い。ここまでくれば、もはや文書の問題ではない。むしろ、凄さを解説すればするほど、「難解な難物」として捉えられてしまっているのではないか。
希哲17年1月7日の日記
無理をしないと書いたそばから,調子が良いを通り越して過熱気味で,また寝るのが遅くなってしまった。
開発では輪郭選り手の改良に熱中し,輪郭整備もまたお預けとなった。ただ,描出効率の大きな向上が見込める改良となり,今後の輪郭整備を考えればむしろ良かった。きっかけは昨日の開発での不具合修正で,これも怪我の功名だった。
輪郭選り手改良に意識が向いたのは,最近,執筆環境としてのデライトへの期待が高まっていたからかもしれない。もちろん,デライト文書整備が念頭にある。
デライトの完全な成功までの「最後の壁」だと思っていたものを突破しては次の壁にぶつかるということを繰り返してきたので,“その時”が来るまで,結局何が「最後の壁」なのかは分からないだろう。
用者が大きく増えないままデライトが進歩し,洗練されるたびに不思議な感覚を覚えてきた。こんなに凄いものをこんなに少人数で使っていることに,罪悪感に近いものを覚える。隠しているわけでもないのに独占しているみたいだ。事実,デライトほど構想的・技術的に高度で,高品質で,なおかつ無名なサービスは他に無いだろう。
現在のデライトを俯瞰した時,明らかに欠けている大きな部分はもはや一つしかない。それが“文書”だ。
正式離立から適当な状態のまま,ほとんど手を入れていないデライト文書の整備を遅らせてきたことには,修正回数を最小限に抑えるという戦略的な理由があった。実際,ここまでのデライトの急激な変化にいちいち文書を追随させていたら,デライト開発自体がここまでの速さで進んでいないだろう。第二次快調期と第四次宣伝攻勢を経て,安定感が出てきた今が一番効率的・効果的に文書整備を進められる時期なのは間違いない。
それとは別に,自分にとって一番気が重い仕事を先送りにしてきたという側面がなくもない。それは恐らく,自分自身の言語能力を究極的なところで試される仕事だからだ。
デライトも希哲館事業も,難しい,分かりにくいとよく言われるが,その原因のほとんどは概念の独自性や複雑性だ。そうしたものに乏しい事業発足間もない頃は,むしろ,分かりやすい文章を書くことを評価されていた。私自身のその得意意識が,かえって難解さに対する蛮勇につながっていた。生きて帰る自信があったからこそ巨大迷宮に入れたわけだ。
この未曾有の大事業15年の結晶にして未曾有の技術であるデライトを“分かりやすく”言葉で表現する仕事。本業中の本業であり,もはや文学的探究ですらあるデライト文書整備と向き合わざるをえなくなっている。その前に「完全な成功」が訪れて欲しいと,心のどこかで願っていた。いずれやることとはいえ,時間に追われながらやることではない。
この無理難題を前にして唯一の希望となっているのが,他でもないデライトそれ自身だ。執筆環境・発信媒体としてのデライトに磨きをかけることが文書整備の成功に,ひいてはデライトの完全な成功に,更には希哲館事業の成功につながる。最近のデライト開発には,そんな意識が反映されている気がする。