文章を書く楽しさについて書いた文章のver2
人が何かを面白いと思うとき、そこに意外性が存在する。
具体例をあげよう。「いないいないばあ」という遊びは、いない状態から始まる。通常であれば「いない状態」が継続する。だが、突如として「いる状態」に切りかわる。つまり「いないいないばあ」をされた赤子にとって、意外な変化が発生する。この意外性によって赤子は喜ぶわけである。
さて、文章を書くのは面白いが、文章を書くことの中にはどんな意外性があるだろうか。
思考の逸脱
文章を書いていて「こんなことを書くつもりはなかった」ということはないだろうか。文章を書けば必ず通常の思考からの逸脱が生じる。
文章を書くこと自体が知能増幅として働く。自身の脳に入り切らない物事が組み合わさった結果が出力される。その体験はメモ無しで考えるという体験からは逸脱している。
いつもの自分の思考から逸脱する。思ってもないことが書かれる。という意外性は、文章を書くことの面白さの一つだ。
しっくりこないところを消したら何もなくなってしまった。
文章を書く楽しさについて書いた文章のver1
スパ帝という人が、「ゲームの面白さは非線形性によってもたらされている」と説明した。
それを一般化すれば、「遊びが面白いのは非線形性を持つから」と言える。言い換えれば意外性のある変化があるから、遊びは面白いのだ。
具体例をあげよう。「いないいないばあ」という遊びは、いない状態から始まる。線形であればその「いない状態」が継続する。だが、突如として「いる状態」に切りかわる。つまり非線形な変化が発生する。この意外性によって赤子は喜ぶわけである。
さて、文章を書くのは面白いが、文章を書くことの中にはどんな非線形性、意外性があるだろうか。
もうすでに手に負えなくなってきた
どう着地するつもり何だこいつは
思考の逸脱
文章を書いていて「こんなことを書くつもりはなかった」ということはないだろうか。文章を書けば必ず通常の思考からの逸脱が生じる。
文章を書くこと自体が知能増幅として働く。自身の脳に入り切らない物事が組み合わさった結果が出力される。その体験はメモ無しで考えるという体験からは逸脱している。
いつもの自分の思考からの逸脱する、思ってもないことが書かさる、という非線形性は、文章を書くことの面白さの一つだ。
置きに行ってしまった。次の章では「逸脱」を起こしたい。
文章というドッペルゲンガー
同じ自分はこの世界に二人と存在しないという当たり前を、文章は超越する。
文章は自分が映し出された鏡になる。否応なく。文章を書く、知能増幅された自分を、文章を通して対峙することになる。
文章を書くことは、自分の記憶と対話することにほかならない。
文章による時間の超越
個々の人間が持つ記憶は、その肉体とともに滅びる運命にある。
遠い過去に書かれた文章は、長い時間残ってきたという事実だけで面白さが生じる。
それが、数年、数十年前に、自分によって書かれたメモであれば、過ぎ去った時間をしみじみと体感することができる。
更にそこに、自己保存欲求の充足が加わる。書いた文章は、自分の肉体とは異なり、遠く離れた時間にいる相手に届く可能性を持つ。
締め
話の始まりにある、非線形が枷になっている。なくしてしまったほうが良い。ver2で書き出しを整理。
文章を書く楽しさは、意外性によってもたらされており、3つの意外性について記した。