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着地非線形性スパ帝思考・記憶・記録の三体問題記録の非線形性書かさるメモの非線形性文章を書く楽しさ遊びの非線形性

 スパ帝という人が、「ゲームの面白さは非線形性によってもたらされている」と説明した。
 それを一般化すれば、「遊びが面白いのは非線形性を持つから」と言える。言い換えれば意外性のある変化があるから、遊びは面白いのだ。
 具体例をあげよう。「いないいないばあ」という遊びは、いない状態から始まる。線形であればその「いない状態」が継続する。だが、突如として「いる状態」に切りかわる。つまり非線形な変化が発生する。この意外性によって赤子は喜ぶわけである。

 さて、文章を書くのは面白いが、文章を書くことの中にはどんな非線形性、意外性があるだろうか。

もうすでに手に負えなくなってきた
どう着地するつもり何だこいつは

思考の逸脱

 文章を書いていて「こんなことを書くつもりはなかった」ということはないだろうか。文章を書けば必ず通常の思考からの逸脱が生じる。
 文章を書くこと自体が知能増幅として働く。自身の脳に入り切らない物事が組み合わさった結果が出力される。その体験はメモ無しで考えるという体験からは逸脱している。
 いつもの自分の思考からの逸脱する、思ってもないことが書かさる、という非線形性は、文章を書くことの面白さの一つだ。

置きに行ってしまった。次の章では「逸脱」を起こしたい。

文章というドッペルゲンガー

 同じ自分はこの世界に二人と存在しないという当たり前を、文章は超越する。
 文章は自分が映し出された鏡になる。否応なく。文章を書く、知能増幅された自分を、文章を通して対峙することになる。
 文章を書くことは、自分の記憶と対話することにほかならない。

文章による時間の超越

 個々の人間が持つ記憶は、その肉体とともに滅びる運命にある。
 遠い過去に書かれた文章は、長い時間残ってきたという事実だけで面白さが生じる。
 それが、数年、数十年前に、自分によって書かれたメモであれば、過ぎ去った時間をしみじみと体感することができる。

 更にそこに、自己保存欲求の充足が加わる。書いた文章は、自分の肉体とは異なり、遠く離れた時間にいる相手に届く可能性を持つ。

締め

話の始まりにある、非線形が枷になっている。なくしてしまったほうが良い。ver2で書き出しを整理。

 文章を書く楽しさは、意外性によってもたらされており、3つの意外性について記した。

あれ文章を書く楽しさについて書いた文章のver2あれあれあれ

 人が何かを面白いと思うとき、そこに意外性が存在する。
 具体例をあげよう。「いないいないばあ」という遊びは、いない状態から始まる。通常であれば「いない状態」が継続する。だが、突如として「いる状態」に切りかわる。つまり「いないいないばあ」をされた赤子にとって、意外な変化が発生する。この意外性によって赤子は喜ぶわけである。

 さて、文章を書くのは面白いが、文章を書くことの中にはどんな意外性があるだろうか。

思考の逸脱

 文章を書いていて「こんなことを書くつもりはなかった」ということはないだろうか。文章を書けば必ず通常の思考からの逸脱が生じる。
 文章を書くこと自体が知能増幅として働く。自身の脳に入り切らない物事が組み合わさった結果が出力される。その体験はメモ無しで考えるという体験からは逸脱している。
 いつもの自分の思考から逸脱する。思ってもないことが書かれる。という意外性は、文章を書くことの面白さの一つだ。

しっくりこないところを消したら何もなくなってしまった。

あれ

2022/11/9 18:08:00

もうすでに手に負えなくなってきた
どう着地するつもり何だこいつは

非線形性の良さを伝える文章の構造が非線形的なのは当然の理(適当)
自己言及万歳!