書いたというより書かさった
書いた文章が自分の能力を超えているために、自分で文章を書いたという実感が得られず、目に見えない誰かが自分の体を使って書いたのだという感覚を得ること
書いた文章が自分の能力を超えているために、自分で文章を書いたという実感が得られず、目に見えない誰かが自分の体を使って書いたのだという感覚を得ること
コードとコードの口金を合わせてくっつけてやって、型エラーとか適当に直したら動いてしまったので「????」ってなってる。「書いたというより書かさった」という感じ。
明日の進捗報告には間に合ったから今のところはこの幸運を喜んでおこう。
文章の構造を書き換えるのが怖い。一度書いたプログラムをリファクタリングするように、一度書いた文章も整理をつけてやることでより良い文章になると思われるのだが、基本的に私の文章は書いたというより書かさったものなので、それを整理という形で構造に手を入れると、積み木が崩れてしまって二度と組み上げられないというような恐怖を感じる。ちょこちょこした表現の修正とか誤字の修正とかに関しては特に恐怖は感じない。
この文章の構造を変える恐怖を乗り越えて、文章を徹底的こねくり回してこそ、本当の文章力が付き、書かさったから脱却できるのかもしれない。
デライト紹介文は、愛着が生じない程簡単に書けた。書いたというより書かさったという感触がある。この現象を再現可能とするために、何が起こったのかを記録しておく。
どんなことを書けばいいのか分からなかった私は、先行事例に答えを求め、YoutubeでWorkflowyが出している動画を見た。機能の紹介が主で、それは私の求める形ではなかった。why → how → whatという形にしたいという思いがあった。まず最初に、「なぜデライトか?」に答える必要があった。
「なぜデライトか?」を換言すると、「なぜメモなのか?」という問いに還元された。私の中にこの問いに対する答えを持っていないと感じられたために、題目からの発想を放棄し、素材集めの旅に出た。私の中に答えを求めるのではなく、デライトの中に答えを求めた。その際、『なぜメモなのか』という輪郭をクリップボードに入れたまま、デライト、メモ、メモ、『TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる』を見て回った。使えそうな素材が見つかれば、『なぜメモなのか』に引き入れて行った。
『メモはなぜ進歩しないのか』の中の「メモから世界が変わる」の一文にピンときた。この一文を少し変え、「メモが世界を変える」を中心に据えた。そこからは逆算で文章を書くことができた。