t_wの輪郭

2022年11月14日日記

2022/11/14 23:44:00

 早く寝たので朝早くに目が覚めた。いつもこうでありたい。 SNSを見ていたら出社時刻が近づいてきて、焦燥感が生まれてくる。焦燥感から逃れるために早めに出社して、会社からSNSをすることに決めた。早めに家を出たところ、電車が非常に混んでいた。


 午前中は仕事に手がつかなかった。月曜日は出社しているだけで偉い。本当にやる気が出ないデライトを触って過ごす。午後になってもデライトを触って過ごす。カスである。案の定、その日の進捗は悪かった明日がんばりたい


 昼休憩。会社の近くの公園を歩く考え事をしながら。デライト及び輪郭法を論文にすると、面白いかもしれないと思った。学術系の人達にデライトが知れ渡るかもしれない。問題は論文を書くのが非常に面倒くさいということだ。もう2度と論文を書きたくない。そう思って大学から飛び出し、就職したのだった。


 仕事から帰宅パック寿司を買って帰る。パック寿司を食べた後、軽くジョギングをした。最近ジョギングをしている。歩くよりもやや速い程度の速さで走る。だいたい心拍数か150ぐらいになる。座業の疲れが取れる気がする。心拍数を上げるのは、おそらく健康に良いダイエットのためにも継続したい。
 走った後にクラフトコーラを買って飲む。台無しだ。故においしい。


 デライトの輪郭法の論文化に向けてちょこちょこと調査をしてみる。頭に浮かんだ語彙である、「自己組織化」で、図書館の本を検索し、予約を入れる。18冊の本が予約に入っている。今週末も読書祭りだ。


 友人から誘われてSplatoon3をする。あまり勝てない。友人が、チャージャーを持つと勝てない。武器の相性が悪いのかもしれない。近接を武器を持っている時の友人に頼っている。
 まあ、負けても楽しめているからいいだろう。一人でプレイするよりもはるかに楽しい。


 入浴後、読書をして過ごす。全然読み進まない。読みたい本が増える。リストの本が増える。図書館に予約した本が増える。図書館で借りた本が増える。これらが減ることはないのだろう。どれだけ読んだとしても、読む速度よりも増える速度の方が早い。読むほどに読みたい本が増える。せめて計画的に読みたいものだ。PushではなくPullで読みたい。
 家で読んでいるとどうにも集中できない。 SNSをちょいちょい見てしまう。やはりカフェで読書するのが集中できてよい。


 日記を書く。ふと思い立って音声入力で日記を描いてみている。思いのほか悪くない。ちょこちょことした調調整はキーボードでやっている。何度も書いているが、指の腱鞘炎にならないので良い。
 音声入力は通常のキーボードでの入力とはまた違った入力の勘所がある。しばらく練習したい。
 Windows11の音声入力で書いている所を録画すると面白いだろうか?もうすでにほかの人がやっていそうだ。念のためにYouTubeで検索してみよう。
 YouTubeで検索した。解説動画が大量にある。わざわざ私が作る必要はなかった。


 23時41分に眠気が発生した。そろそろ寝ようか。明日早起きして活動すればいい。早寝早起きするのも遅寝遅起きするのも同じだ。

対象知識の利用予定が無いにもかかわらず、興味や流行りなどによって学習すること
流行りや興味の変化によって学習すべき(と思ってしまう)ことが増加し続けるため、焦燥感が生じる
体系立った学習であったとしても、対象知識の利用予定が無ければなんか良さそう駆動学習に当たる

あれ

2021/8/9 16:33:00

久々に強めの無気力感が来ている。無気力感というよりは、有意義であることの閾値が上がっている感じがする。有意義なことをしなければいけないという焦燥感もある。

 出社すれば働いてる気分になれそうな気がする。家にいると、業務時間中脳内エライ人が無限に詰めてくる。サボるけど。焦燥感に追われながらいつもサボってる。何がとは言わないが許されたい脳内社会は厳しいんだぞおじさんに許されたい。

 休みを取るよりサボるほうが楽なんだけど、精神は休まらないので長めの休みが取りたい。


 成果を出したいという気持ちがあってしまうわけです。労働者が成果を出さないといけないというのは幻想だろうと思うわけです。仕事中毒というか、充実感中毒なわけです。目に見えない、よくわからない、定義のない充実感を求めて動いてしまうわけです。
 充実感中毒が続くと成果序列付けしてしまうので、成果を出してない人間を棒で叩きたい欲求が出てきてしまってよろしくない。
 この、成果を出してない人間を棒で叩きたい欲求を自分で自分へ向けてる状態が、業務時間中のうっすらとしたストレスの原因になってる気がする。
 つまるところサボる自分を自分で攻撃する構図がある。というか、この「サボる」という語を自分に対して使うということ自体が、自分自身に呪詛を吐いていると言える。

 これをやめたい